・・・・それは、すばらしき岳人たちとの出逢いから始まりました



「丹沢山塊」塚本閣治著、1944年9月発行

これは戦時下の昭和19年に発行されたもの。山と渓谷社刊で、丹沢の地形、地質、植生、動物、民族、遭難と対策、交通事情と料金、山麓の宿泊所案内、峠越え、尾根歩き、沢遡行のガイドブックとして今と変わらぬ体裁を整えている。たった一つの相違点は文頭3ページだけが取ってつけた内容となっている。「決戦下山岳錬成の重要性が一段と・・・」で始まり「日本民族としての決意を新たに致すべき秋である」で終わっている。世間一般では道楽本に過ぎないガイドブックを、まして戦時下で出版にこぎつける環境は計り知れない。貴重な写真も数多く載っている。数年前、知人は無造作に「これ、もっていきな」と私に差し出したものだが、読めば読むほど深みのある書に驚いている。知人に感謝である。

「山と高原地図・丹沢」古谷聖司著

一番なくてはならないこのガイドブックを実はかなり前から行方不明にしてしまった。昭和50年代初頭の発行で、ご自宅には何度か上がらせていただいたが、そのことは言えず今日まで隠したままだ。19817月、諸先輩のあとにくっついて山の会合に参加した時、そこに古谷さんがいた。以来お付き合いをさせていただいた。2005年ごろだったと思うが、古谷さんがNHK横浜文化センターの登山講師をされていた時、その登山教室前日の夜遅く「腰が痛いので明日の檜洞丸を代わってくれ」と電話をいただいた。もう何人かに頼んだが断られている様だ。私などに頼むこと事態が緊急事態と察し止むを得ず引き受けた。

写真左側:山と高原地図の現代版、写真右側:紛失同時期販売の「登山・ハイキングシリーズ(日地出版)」

 新版登山読本」横山厚夫著  1979年5月発行

わたしが山の精神的な在り方の影響を受けた書のひとつだ。当時の赤線を記した箇所を引っ張り出すと「私たちが山を求めるアンテナを広くめぐらしていれば、山はどんどん飛び込んでくるのです」や「頭のチャンネルを、常時、”山”の波長に合わせておくことが大切です」などがある。心の書として丁寧に読ませていただいた。あれから約30年、山梨にある横山さんの蔵書室に本書を預け、来られた時にサインを託した。それから1ケ月もしないうちにサインをいただいた。仲介役の知人によると「だいぶ古いのを持っているね」と目を細めて快く応じていただいたようだ。横山さんは本欄最後に紹介する近藤さんと八ヶ岳から帰ってきたときに深田久弥氏の急逝を知り、トンボ返しに山梨に向かっている。また、本欄途中に出てくる泉さんとも旧知の仲であることは、とても縁深い。

「車窓の山旅・中央線から見える山」山村正光著、19854月第6刷発行

 山村さんはJR甲府車掌区に40年勤め、定年を迎えた年にこの本を上梓している。特急「あずさ」の車掌だった。中央線から見える山々を緻密に同定し、その数は180座におよび、手書きのスケッチを入れて懇切丁寧に名峰を紹介している。中でも78番目の「茅ケ岳」には、「この山は私にとって終生、忘れることはできない」と記している。ご承知深田久弥終焉の地であり、昭和46321日に深田氏が倒れた時に山村さんが同行していたからだ。その後、山村さんは文学碑「百の頂に百の喜びあり」の建立にも関わっていられる。上梓された年の6月、山村さんと丹沢のモミソ沢を遡行した。著のサインには「好い山 酔い酒 宵泊り」が書き添えてあった。

「雲の上の診療所」大森薫雄著、199511月発行

医者である大森さんが「日本各地の山の診療所で働く医師はボランティアであり、報酬は受けていない」ことを知ってもらいたい一心で執筆され、「山の勤務医は金無医(キンムイ)」が口癖だった。一方、中高年登山者の先導師でもあり外科医としてテレビやラジオにも登場され、気さくな人柄は天下一品であった。大森さんとは198111月に仏果山に初めてご一緒させてもらい、以来、山と酒のお供をさせてもらった。1970年日本エベレスト登山隊参加(日本人医師として最高峰に立つ)、その後は日本山岳会副会長、日本山岳協会副会長などの職に就かれた。その輝かしい岳歴を我々庶民の前では決して話題にしたことがない、そんな人柄を私淑してやまなかった。200911月ご自宅に病気見舞い、2010424日永眠、後日奥様から葬儀手伝いの礼状が届いた。「皆様からのご芳情の一部を槍ヶ岳診療所に寄付」と記されていた。

63歳エヴェレスト登頂」渡邉玉枝著、20037月発行

1980年、知らない者同士で丹沢の源次郎沢を詰めることにした。その時、私の目の前を登っていたのが玉枝さんで、紺のトレーパンに80ℓはあるリュックを背負い「沢なのに何でこんな重いのを・・」が第一印象だった。終えたあと主催者から紹介があった。「5年前マッキンリーに登った渡邉玉枝さんです」、まわりは皆感心していたが、私はマッキンリーがどんな山なのかその時は知らなかった。玉枝さんが岩登りを1年間で習得した1977年、氷壁のマッキンリー南壁アメリカン・ダイレクト・ルートに成功していることをあとで知った。月日が経ち、玉枝さんの本書出版記念会が横浜駅前のホテルで開催された。私は受付を手伝ったが、その後、凍りついたテントの中で酒を酌み交わすことになるとは思ってもみなかった。

「阿夫利嶺の里」飯田好江著、2004年3月初版 

 著者は私の叔母である。角川書店から短歌集を出版する運びとなり、多くの方が集まりその祝賀会が開催された。私は出版の祝いと言うよりも日ごろからお世話になっている、感謝する意味でご祝儀を包んだ。日本歌人クラブに居た叔母は短歌をこよなく愛している。登山はしないが、『暁のもや引きつれて現れし秩父連山うす墨に浮く』や『荒あらしき山々の背にモンブランの気品あふれる稜線やさし』など、句集からは登山心をくすぐる術を十分に持っていることがわかった。

「丹沢今昔」奥野幸道著、20047月発行

戦前から40年近く丹沢のガイドブックスを書き続けられた痕跡は本書に集大成され、丹沢を知る上で歴史的に貴重な写真・史実が盛り沢山で目を見張るものばかりだ。その一例に明治時代から今日まで、「塔嶽」、「塔ガ嶽」、「塔ガ岳」、「塔ノ岳」と動き続ける山名を正確に捉えている。神奈川県山岳連盟の顧問をされていた20026月、ユーシンロッジから尊仏山荘まで3時間ほど掛けて仲間3人で82歳になられた奥野さんのお供をさせていただいた。尊仏山荘手前で奥野さんから突然「その辺に少し大きな石2つとピース缶があるので探してくれ」と頼まれ、時間は掛かったが何とか草むらの中に見つけた。だいぶ前に友が倒れられた場所で、錆びてしまったピース缶に向い合掌をされた。それから2年後に本書を戴いた。「丹沢より愛をこめて」と表紙裏に丁寧に書き添えてあった。

「山梨県の山」長沢洋著  20062月初版

仲間5人と長野の山から下りるのが遅くなってしまい、帰路途中にある著者経営の宿に仲間が急遽電話をし、これから泊まる了解をとった。 発刊された年の6月だった。その時初めてお会いし、翌朝、食堂に無造作にこの本が置かれ発売中だった。立ち読むと、その巻末には「著者校正を終えた日、分県登山シリーズの前著者の訃報に接し、出来上がった本をみせられなかたことが無念」とある。その前著者を私は知っていたので、話は直ぐに想い出話へと移ってしまった。袖触れ合うも他生の縁なのか。その後2016年4月初版、10年ぶりに改訂され、その年の夏に手にした。著者経営の宿は相変わらず簡素な建屋だが、メシが実にうまい。概説文には「これだけの大スターたちと個性豊かな脇役陣が同じ舞台に勢ぞろいする県はほかにない」と山梨県の山を一歩前に出している。

「文豪が愛した百名山」中川博樹・泉久恵共著、20087月発行

出版早々の74日、居酒屋で泉さんを囲みミニ出版祝賀会成るものが開催された。最初、私は何の集まりなのか理解できないまま飛び入りした。メールに「泉さんと呑むよ、以下日時・場所」だけのお誘いだ。その夜、書を読んでみた。志賀直哉や夏目漱石らの文豪が愛した百名山を軽快に紹介している。また、彼女らしく深田久弥のヒマラヤ時代、深田氏隊長のシルクロード踏査隊に、関係者なのに自分を全く登場させていない。さすが健筆者だ。20044月、私の車で途中八王子で泉さんを拾って、仲間と残雪の万座周辺でヤブコキをしたのが出逢いだった。当時山岳会に一度も所属したことが無い私を変わり者として褒めてくれた。彼女は、「日本百名山」発刊を強く深田久弥に押し勧めた大森久雄氏とは親交が厚かった。

「徹底ガイド 春夏秋冬 丹沢・奥多摩・奥秩父」敷島悦朗著、2009年2月初版

敷島さんと初めて会ったのは2010年の秋で、日本トレッキング協会常任理事の敷島さんが講師で私が受講生の関係だった。それがきっかけで以後積極的にご指導を受けるようになった。2012年10月、日和田山で岩トレの最中に持参した本書にサインをお願いした。博識多才な敷島さんは何と文字を添えてくれるのだろうと、その楽しみから驚きに変わったのはあっという間だった。「買ってくれてありがとうございます」と、表紙裏に躍動する文字が植わった。そんな人間味溢れる人柄に惹かれてしまうのは私だけではないはずだ。その年の岳人7月号に「懸垂下降の末端結び」は逆に危ないことを提言し掲載、続いて岳人12月号「ロープの結び目強度」は7ページにわたり検証している。技術的にも誰もが一目置く一流のクライマーだ。2014年、個人的に小川谷遡行に誘われ、その帰りの温泉で「来年、NPOオリソンテ登山学校を立ち上げるので手伝ってくれ」と言われ、私は微力だが承諾してしまった。2015年3月13日病気急逝、2週間前にお会いし1週間前に電話をいただいたばかりで、ても信じられない。

 

「かながわのハイキングコースベスト50プラス3山本正基著、20105月初版

実は20039月に「かながわのハイキングコースベスト50」初版を出し、研究熱心な山本さんは今回さらに3座を加えて再出発した。もともとの発端は神奈川新聞の日曜日版に20025月から約1年間にわたり、毎週歩き続け連載したことから始まる。本書の冒頭に「ガイドブックというものは、生の食べ物と同じ”活(いき)”が勝負です」と書いている。山本さんらしい言葉だ。待ち合わせの居酒屋に行くと、山本さんが本にサインをしている最中だった。「今日、書店に出たのであげる」、全く予期していなかった本書を手土産としてありがたく頂戴した。その後2017年10月「続かながわのハイキングコースベスト40プラス1」の初版が発行された。またしても戴き恐縮するばかりである。

「登山死亡遭難事故事例集」山森欣一著、20107月発行

著者とは面識がない。発行直前の6月に送付されてきた購入のお願い文には「無職で休職中です。障害者手帳を持つ66歳には困難な壁が立ち塞がっております」これが元日本ヒマラヤ協会理事長のお言葉?、一瞬疑ってしまった。自費出版販売で送料込3340円、高いか安いか分からないまま勇気を出して買ってしまった。が書が届くと、さすがだと感じた。1945年から2009年までの約6100名の遭難記録を新聞記事等も調べ、2年半ほどかけてA4判約350頁にまとめている。発生年月日、氏名、年齢、場所、原因、所属山岳会名、事故の出典等が基本データで、発生年月日順に掲載されている。それを元に集計や特徴的事例を紹介している。遭難に関する希少稀な書物だ。

「深田久彌 その山と文学」近藤信行著、2011年12月初版 

近藤さんは文士で1978年「小島烏水 山の風流使者伝」で大佛次郎賞を受賞されている。その3年後、そうとも知らずに先輩に連れられて中華料理屋で食事を共にさせていただいたのが最初だった。「関君は若いからもっと呑みなさい」が最初に声をかけていただいた言葉だった。その後、山に何度か同行させてもらい、下山後に喉を潤すときも「若いからもっと呑みなさい」で、最後にお会いしたのが10年ほど前のパーティ会場で、やはり「関君は若いからもっと呑みなさい」だった。近藤さんは深田久弥と親交が深かった。深田氏が茅ケ岳で倒れ、急逝を知ったのは八ヶ岳から都内の自宅に帰って来てまもなく、深田志げ子夫人からの電話だった。近藤さんはその夜トンボ返しに山梨に向かっている。山梨県立文学館館長を2012年に辞められて今はどうされているのだろうか。書店で偶然手にした本書を読ませてもらっていると、「もっと呑みなさい」と聞こえてきた。山多し命短し、もっと登りなさいなのか。